日本に伝わる治療法の歴史

全国および大阪府の協会から授与された療術師としての認定を示す標。

 

「療術」とは何なのか?

2019年を迎え、年号が改まる年でもあり
改めて当会が伝えている「療術」とは何なのかを振り返る時間を持ちました。
それは「療術」というもののルーツを調べるきかっけになり
いま「療術」を見直すのに良い機会では無いかと思い、ここに書き記します。

療術と霊術

 現在の「療術」の存在が記録として残されているのは昭和5年に
当時警視庁令として「療術取締規則」と言うのが発布されたのが始まりです。
 それまで療術は存在しなかったのか?と言うとそうでは無く
「療術」という言葉でまとめられてはいなかった、と言うことです。

 さて、昭和5年以前の文献を見ると、そこに「療術」ならぬ「霊術」なる言葉が存在しています。
 この「霊術」は大正中期から昭和初期まで ”一世を風靡した” という記録が残されています。
さて、この「霊術」とはいかなるものか?
「霊術」のルーツは遙か昔平安時代から鎌倉時代に起源を持つ「山岳仏教」
いわゆる役行者をルーツとする「修験道」が起源とされています。
その当時、病は”悪霊が取り憑いている”とか”祟りのせいで起こるもの”とされていました。
そこで修験者達の中で病に苦しむ人を救うために
いわゆる「気合い術」あるいは、「加治・祈祷」で治癒に導こう
という修行者が現れ、民間の中で「医療」の一端を担っていったという経緯があります。

 あるものは、高貴な身分の人の病を平癒させ
お抱え医師として採用された修行者もいたという記録もあります。

 また「古神道」の中にも病平癒の祈願をする祭主も存在し
現在のように医療というのが「医師」によって行われる以前は
宗教と強く結びついていた事がわかります。
その時代に「霊術」のルーツがあり、それを起源として
やがて時を経て「療術」が生まれたことを再認識させられました。

全国および大阪府の協会から授与されたの療術師としての認定を示す標。

蘭方と漢方

そして江戸時代も末期になると、西洋の医学が伝わり
いわゆる「西洋医学」が受け入れられるようになりました。
この新しい医学を「蘭学」、それまでの日本の医学を「漢方」とする
考え方が医師(医業を専門とする職業)の中で起こりました。

病は「薬」で治すものとして民間の間で広まり、地方によっては独特の「民間薬」も現れました。
(漢方薬を処方する医師にかかれるのは、まだ一般的では無かった)

この頃になると病は悪霊や祟りのせいでは無いと言うことが徐々に広まりつつありました。
しかし貧しい庶民の間には、根強く信仰と病平癒の願いは残っていくことになります。
まだまだ西洋医学にも解明できない病気があり、医師の限界を感じた患者は
祈祷師や神社を頼って病の平癒を祈願したのでした。

西洋医師の誕生と霊術の衰退

 明治になり「医政」が施行されると、それまで医療の中心的な役割を担ってきた「漢方医」は
事実上廃止され、国の方針で「医療」は西洋医師のみに認められることとなりました。
 それでも実際に一般庶民の間では、敷居の高い「西洋医」よりも
身近な「漢方医」、加治・祈祷師のところへ行く人が絶えませんでした。

 大正中期になりアメリカとの交易が盛んとなり、商売であるいは、留学のために渡った人の中には
当時伸び盛りだった「オステオパシー」や「カイロプラクティック」を習い日本に持ち帰り
日本の風土習慣に合うようにアレンジして、施療を行うものや講習会を主催する者達が現れ
いわゆる「療術」の基礎を作り隆盛を極めていきました。

この時代は「霊術」と「療術」が混在することになり「霊療術」と呼ばれるようになりました。
しかし、数が増えてくると中には、不良な業者も現れついには、
昭和5年の警視庁令「療術取締規則」という規制がかかることとなります。
この時点で「霊術」は表舞台から姿を消し、「療術」のみが残るという結果になったのです。

民間療法の禁止

この後、大東亜戦争を経てGHQの進駐により
「按摩・マッサージ」「鍼灸」「柔道整復」を含め「療術」という民間療法は
全面的に禁止という命令が下されることになるのです。
これ以降何年を経て、これらの療法は国によって免許制度、認定制度が整い
医師とは別の立場で、治療に関わっていくことになります。
この流れは「療術師会」の歩みとなって記録されていますが
そのに記された要となるところを後のブログに続けます。