光線療法と私

なほ:こちらのコーナーでは、大阪療術研修所で光線部門を担当されている中島正人先生の日ごろの仕事ぶりと、日常のあれこれを語っていただきます。

まずは、自己紹介を兼ねて、施術所の様子と看板娘(?)たちのことからお願いします。

中島:大阪療術研修所で光線療法を担当する光療術院(ひかりりょうじゅついん)の中島です。

当院では4台の光線治療器で、患者様の症状に合わせて光の種類を選んで照射して、症状の改善を図ります。

また、癒し担当スタッフのにゃんこ達が猫好きの患者様をお出迎えしますよ。

なほ:いつから光療術院始めたんですか?

中島:平成13年に全国療術研究財団近畿ブロック研修所を出て、2年ほど療術施術所で経験を積んでから、平成15年に光療術院を開院しました。

なほ:なにかきっかけがあったんですか?

中島:きっかけは阪神大震災と家族の健康のために何か良いものはないかと思って。

なほ:始めるとき、家族に反対されませんでしたか?

中島:反対されると思ってたんですけど、妻は賛成してくれました。

以前、妻は腰痛で苦しんでいて、大学病院で診てもらったら腰椎椎間板ヘルニアで手術と言われました。しかし、二人の子供がまだ小さかったのと、周りから手術しても良くならないと言う声が聞こえてきたので、手術はせずに知人から教えてもらった療術施術所で光線療法を受けて、信じられないくらい良くなったので。

なほ:それまではなにをされてたの?

中島:製版会社のサラリーマンです。チラシやポスター、冊子なんかをMacで制作したり、デザイン事務所から回って来たデザインデータを製版データに処理したり、DTPオペレーション全般ですね。

なほ:阪神大震災が与えた影響はどんなことでしたか?

中島:震災の時は西宮市に住んでいて、それまでの当たり前の生活が一瞬にして吹き飛ばされたわけですよ。幸いうちの家族は全員怪我も無く助かったんですけど、周りではあちこちで家が押し潰されて、道路はアスファルトが割れて、うちの自治会でも31名の方が亡くなったそうです。当時、息子が4歳、娘が8ヶ月だったのと大阪の会社に出社できない事を理由に、大阪の実家に避難してそのまま大阪に引越したんですけど、時が経つにつれて自分は生き残ったのに何もせず逃げ出したという後ろめたさがね、湧いてきたんですよね。ホント毎日キツかったですよ、すごい光景見ちゃったから、トラウマですね。ある時ふと思ったんです、命が助かったと言うことは残りの人生は人様の為に身を使えということなのかなと。それまでは仕事バリバリやって誰にも負ける気しなかったから、誰に対しても傲慢でものすごく嫌な奴だったので(家族の証言あり😅)。

なほ:何才の時?

中島:震災の時は36だったかな。その後、先に言った様に光線療法と出会い、自分の母も妻の母も病気で苦しんでいたので、これはもう天職だと思って光線療法の先生のところに通い、40歳の時に研修所へ入りました。

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